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1月15日 映画「2001年 宇宙の旅」つづき [2022年 日記]

映画を観た後にいくつか引っかかる点があったので、原作を何十年かぶりに読み直してみた。

巻末の訳者あとがきにふれられているとおり、この作品については映画を観てから原作を読む、という順番が本当におすすめできる。映画のセリフの少なさに象徴される、映像で観るものの想像力を喚起するという構成が、文字による詳細な描写によって補完され修正され、拡大される。原作を読みながら、映画の1シーン1シーンがことごとく脳裏に蘇り、ただ文字をたどるだけではなかなかスラスラと頭に入りにくい翻訳ものがきわめてピタッと入ってくる。

前半の猿人のシーンも、ラストの跳躍シーンも、丁寧なガイドに説明してもらっているようだ。しかし、かと言ってイマジネーションが制限される訳でもないのが素晴らしいところだ。むしろ、より深遠な広がりとさらなる探究心を呼び起こしてくれる。また、木星表面や宇宙船内の生活などの描写は微細で、まるで自分が宇宙旅行をしているようで、読後には長旅の後の疲れのような感覚も残った。

前回あげた、HALが反乱した理由についてもすんなりと解き明かされていた。

前回の記事

アナロジーの話:
 猿人が投げ上げた骨が宇宙船に切り替わるカット。骨という道具、武器を使って猿人は飛躍的な進化を遂げた。宇宙船という手段を使って現人類は飛躍的に進歩した。
 宇宙船に乗った人類が未知の世界へ探検して素晴らしいものに生まれ変わる。精子に含まれた遺伝子が本能に従って探検し、これもまた素晴らしい胎児へと生まれ変わる。
 自らを信じるものが自らの存在を否定され危害を加えられそうになり、その予防に動く。人も人工知能も。
 スペースポッドが衛星を回り、衛星が惑星を周り、惑星が恒星を周り、恒星が、、、、


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1月9日 やっぱり春 [2022年 日記]

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ここのところ晴れの天気が続いている。昼間に風のない日に庭に出ると日差しで暖かく感じる。
まだ冬至の一番弱い日差しの日から1ヶ月も経っていないというのに、光に力強さを感じる。鈍感な人間でそうなのだからそれを心待ちにしている植物や樹々はなおさらわかっているだろう。

そう、来たる春の生命力爆発へ向けて準備をしておかなければならないのだ。枯れた枝の先に新芽のエネルギーを蓄え、土の中の根の隅々に目を覚ます用意をさせておくのだ。

人間が植物を見習うとすれば、閉じこもって動かなかった日々を改め、暖かい日には身体を動かしたり、じっと沈殿してしまっていた思考回路に刺激を故意に与えたりする、などか。

1月5日 映画「2001年 宇宙の旅」 [2022年 日記]

人生に影響を及ぼすような映画と言うとおおげさかもしれないが、思春期に見て衝撃を受け、そのまま何十年も時々思い出すのだから間違いでもない。そして世間の評価もそうだ。

最初に見た時はおそらく相当間延びした映画だなと思いながらなんとなく見始めて、だんだんと引き込まれ、ラストで呆然となっていただろう。横で見ていた父も感銘を受けた様子だった。セリフのないシーンが長々と続くのも2度目以降は気にならなくなった。むしろそれあってのストーリーなのだから。

同じような事が映像にも言える。ラストのめくるめく極彩色の連続がハッと途切れるとモノクロの固定画角に移る構成。音声にも。ポッドが登場人物を殺すシーンは無音だ。余計な音楽や効果音はない。音のない宇宙空間の怖さを想起させる。

監督のひとつひとつのこだわりの集大成と原作のストーリー自体が組み合わさって、見る人の心を動かす。

今回見て初めて湧いた疑問は、なぜHALは乗員を殺そうとしたか、だ。直接的には自分の判断ミスから自分を守るためだが、それならなぜ判断ミスをしたのか。本当にAE-35ユニットが壊れそうならほっておいても自分の判断の正しさが証明されるから故意にそう判断したことになる。ならば乗員を殺すため?乗員が後で知るはずの極秘ミッションを知ったら不都合なことでもあるのか?地上の科学者たちはHALに本当のミッションである木星探査の事を既に教えている。乗員と一緒に探査するのではいけないのか。おそらくどこかに答えはあるがしばらくそのまま放っておくのもいいだろう。

木星に到達したボーマンがポッドで無限の彼方に向かうシーン。急速に老けていくので超強力重力場か何かを描いているのだろうとは思っていた。でも説明は要らないかもしれない。どこかに向かったのだ。そしてその後の地上シーン、海上シーン、サブリミナル的にはさまれるボーマンのゆがんだ表情。さらに続く輝き拡がる星間物質のようなシーンには一瞬、精子が母体の中を突き進んでいるように見えるのも発見したがそれは読みすぎか、など考えるのもまた楽しい。

何度もの鑑賞に耐える映画。言葉で解説をいちいちしない余白の広さが嬉しい。映像の解釈には尤度があるのだから。

無機的な部屋で一人寂しくナイフとフォークで食事をしている時に金属音が響くと、かなりの割合でこの映画を思い出す。
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